伊丹空港の知識
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歴史
: ''本項目の詳細についてはいずれも「関西三空港の経緯と現状」を参照のこと''
開港(「大阪国際空港」に至るまで)
近畿地方|関西圏の主要な国内線が発着する基幹空港である現在の大阪国際空港は、1939年(昭和14年)に「大阪第二飛行場」として開設された(大阪第一飛行場は大和川尻に建設が予定されていたが実現しなかった)。第二次世界大戦中は軍用飛行場に転用された。戦後はアメリカ軍を中心とした連合国軍に接収された。このときに「伊丹エアベース」と名づけられたことが、現在の通称「伊丹空港」の祖といわれている。日本に返還された後、1958年3月18日に「大阪空港」として開港。1959年7月3日には、第1種空港として国際路線を開設し、「大阪国際空港」に改称された。1960年代以降の高度経済成長期には大阪市の近郊にも市街地が拡大し、この空港の周辺も宅地化の波が押し寄せた。同じころ、離着陸数の増加や航空機の大型化・ジェット機|ジェット化が進み1964年6月よりジェット機の乗り入れを開始した。ボーイング707やダグラス・エアクラフト|ダグラスDC-8、コンベア880などの大型ジェット機が相次いで就航し、これに対応して1970年2月5日には3,000mのB滑走路が供用開始され、現在の大阪国際空港がほぼ完成した。国際空港時代
3,000m級滑走路を整備し、1970年の大阪万博を迎え、大阪国際空港は「国際空港」としての全盛時代を迎えることになった。1970年代には、国内外の航空会社が相次いで新規参入・新規路線就航し、年間利用者数が1000万人を越え・年間発着回数は15万7000回(1971年)に達し、大いに賑わいをみせた。このころ、滑走路以外の空港施設も充実しはじめ、各社の整備センターや格納庫、エンジン試運転用遮音壁、防音壁などが設置された。しかしながら、空港の活性化にあわせて、周辺地域との間に騒音や排気ガスなどの公害問題を抱えることになった。そのため、夜間飛行の制限や発着回数の見直しを迫られることとなった大阪空港訴訟を参照のこと。1975年12月12日には民間機の21時以降の離着陸が禁止されたこの「門限」が設けられて以来、21時以降に離着陸するいわゆる「門限破り」が発生すると翌日の新聞でベタ記事になるほどであった。。また、1977年10月1日には一日の離着陸回数が370回(ジェット機枠200回、プロペラ機枠170回)と制限されたプロペラ機枠において「代替ジェット枠」などの変遷を経ているが、1977年に決定された「一日合計370回」という発着回数制限は現在も同様である。この規制は、航空機の騒音が改善された現在に至るまで一切変更されていない。
: ''公害問題の詳細については関西三空港の経緯と現状#過去の経緯を参照のこと''発着回数が制限され年間13万5000回での空港運用となったが、空港利用者数は増加を続け、1980年代には年間利用者数2000万人を突破した。DC-10やボーイング747、ボーイング767などの新型機が導入されるなど、航空機の大型化がさらにすすんだ。同時に航空機の低騒音化や防音設備の強化も進められるなど、1980年代は周辺住民との和解に向けて前進をはじめた時期でもあった。1985年8月12日、日本航空123便東京国際空港|東京発大阪行が群馬の山中に墜落し、520名の死者と4名の重傷者を出すことになった日本航空123便墜落事故が発生した。123便の目的地であった大阪国際空港には多くの関係者が詰めかけた。(当事故の引き金とされる1978年6月2日に起こった「しりもち事故」はこの大阪国際空港で起こった。)1990年代に入り関西国際空港開港を目前にひかえても、存続詳細は関西三空港の経緯と現状#1990年 存続方針の確定を参照のことが決定した大阪国際空港は活況を呈した。地方を中心に新路線開拓や増便が行われ、関西国際空港開港後の国内線専用空港としての運用を見据えた路線展開が、この時期に行われている。1994年9月3日、「最後の国際線」となった大阪国際空港発グアム国際空港|グアム行の日本航空のチャーター便(機材:ボーイング747-400(機体番号:JA8912))この便の復路はグアム発関西国際空港行であったを含む『伊丹空港サヨナラフライト』を送り出して、1960年より続いてきた「国際空港」としての大阪国際空港の歴史はこの日をもって終了した。
関西国際空港開港後〜現在
1994年9月4日に関西圏第二の空港として関西国際空港が開港し、すべての国際線と二割の国内線が関西国際空港へ移った。なお、これに先立ち同年6月には大阪国際空港のIATAコードがOSAからITMに変更されている。ちなみに、関空開港の翌々日の夜8時頃から深夜にかけて、空港周辺の伊丹市や池田市、豊中市など大阪北摂地域の一部に激しい雷を伴う局地集中豪雨があり、空港施設や機器類が浸水し使用不能になった。関西国際空港開港直後は、大阪国際空港は旅客数・便数ともに減少し、かつての賑わいは失われた。しかし、国内線はアクセス利便性の面などから大阪国際空港に便が戻り、2000年代にはかつての国内線の旅客数・便数に並ぶ実績をあげた。大阪国際空港の再活性化にあわせるように、2000年には空港ターミナルビル|ターミナルビルが大改装された。1969年に供用開始された既存建物をそのまま活用しつつも新築建物並みのサービス提供を実現したことや、屋上のデッキ(ラ・ソーラ)の園芸|ガーデニングが評価され、2000年12月11日に「第20回大阪都市景観建築賞」の奨励賞を受賞した。空港周辺の整備もすすみ、1997年4月1日のモノレール駅の開設をはじめ、緩衝緑地の公園化など、地域と密接した空港づくりが行われている。(全日本空輸機)騒音対策として、2004年9月29日 国土交通省は段階的に大型機の乗り入れ規制を強化し、YS11|YS代替枠やCRJ枠を縮小・廃止した。さらに、2005年4月1日には、ボーイング747-400|ボーイング747-400型機以外の3発以上のエンジンをもつジェット機の同空港への乗り入れが禁止された。この運航規制による該当機の最終運用日は2005年3月30日で全日空38便(羽田行、ボーイング747LR型機・機体番号JA8174)であった。2006年4月1日には、すべてのエンジン3発以上のジェット機の乗り入れが全面禁止されたただし、「すべてのエンジン3発以上のジェット機の乗り入れが全面禁止」といっても有償飛行に対する措置であって、整備や悪天候によるダイバート飛来等は対象としていない。。「ジャンボジェット(ボーイング747)最終日」の同年3月31日には、最後のジャンボ機となった日本航空1528便(東京国際空港行、ボーイング747-400D型機・機体記号JA8907)が20時20分に大阪国際空港から出発した。翌日の4月1日より、3発以上の大型機の乗り入れ禁止への措置として、就航する各社は提供座席の減少数が1割程度に収まる双発(エンジン2基)の機体、ボーイング777|ボーイング777-200型、同-300型機への機材変更を行った。2006年5月5日、有償飛行での乗り入れ禁止後に初めて全日本空輸のボーイング747-400|ボーイング747-400型機(機体番号:JA8962)が飛来した。これは有償飛行でなく、契約満了に伴いポケモンジェット|ポケモンジェットUSAを通常塗装に戻すための整備飛来によるものである5月18日、同機は通常塗装となり成田へ飛び立っていった。この便も同年3月31日までならこのまま伊丹発の営業路線に投入されるのだが、上記の事情のために回送|フェリーフライトとなっている。。2008年1月19日、同じく全日本空輸のボーイング747-400型機(機体番号:JA8958)が成田空港より飛来したが、これはアッパーデッキ後方の「Yokoso!Japan」の塗装を削除する作業のための回送|フェリーフライトである。1月31日早朝、同機は同じくフェリーフライトとして成田空港に向けて飛び立っていった。なお、この機体は2006年3月31日、有償飛行として最後となった成田線用(国際線接続便)のボーイング747-400型機(国際線仕様)として使用されていた。。2005年から2006年にかけて、「飛行距離が1000 kmを越える路線」の移管が国土交通省の方針のもと行われ、女満別空港便・旭川空港便・函館空港便が関西国際空港発着に、石垣空港便が神戸空港発着にそれぞれ路線ごと移管され、新千歳空港便と那覇空港便は減便分を関西国際空港便・神戸空港便に振り替えた。この飛行距離による制限には、ジャンボジェット機制限のような騒音との合理的な理由がなく関西国際空港開港時にも同様の方針で路線移管が行われたが、合理的な理由がないことや利便性から、2002年頃より北海道方面・沖縄方面などの長距離便を含め、増便や開設(関西国際空港便からの再移管を含む)が相次いだ。、理不尽なものであるとの批判がある大阪国際空港及びその周辺地域活性化促進協議会らの主張(2007年11月29日に国土交通大臣に提出した「大阪国際空港の活用等について(要望)」)による。。また、同措置に対しては同空港利用者の84%が反対と回答しており、空港近隣居住者のみならず、北海道・沖縄居住者らも「利便性が低下する」と反対している同活性化促進協議会の利用者アンケート(2004年9月11,13日に大阪国際空港出発客を対象に調査。結果は同協議会のWebサイトにて公表されている)による。2000年代半ば頃からは、地域と密接した空港づくりはさらに促進され、新規テナントやカルチャースクールの進出がさらに進んだ。航空利用者のみならず、周辺地域の一般客を呼び込む、レジャー施設としての要素を取り入れ始めた。さらに、ターミナルビルの再々改修が行われ、老朽化していた中央ブロックの再生が進められている。中央ブロックの老朽化のため、2006年9月3日この日は国際線の運航が終了してからちょうど12年目にあたる。より、1969年以来空港内で37年間営業してきた大阪エアポートホテルが閉鎖となっていたが、再開に向けた改修が行われている。
チャイナエアライン|中華航空(注:1974年4月20日まで。翌日からは政治的事情、更に同空港の運航事情により事実上の廃線となった。) キャセイパシフィック航空(注:同空港に初めて乗り入れ開始をした外資系航空会社である。) パンアメリカン航空(注:大阪線撤退後、路線はユナイテッド航空に受け継がれた) ブリティッシュ・エアウェイズ|英国航空(注:平日のみ...
