羽田空港の知識
羽田空港 / 概要 / 歴史 / 再拡張事業 / ターミナル・路線 / アクセス / 事件・事故 / 舞台とする主な映像作品 / 拠点がある機関 / 航空管制 / 航空保安無線施設 / 注釈 / 関連項目 / 外部リンク
歴史
東京飛行場時代
1931年(昭和6年)8月25日、東京府荏原郡羽田町鈴木新田字江戸見崎(旧旅客ターミナル地区付近 翌年に東京府東京市蒲田区羽田江戸見町となる)に日本初の国営(逓信省管轄)民間航空専用空港東京飛行場(羽田飛行場)として開業。日本の民間航空黎明期における重要な飛行場であった(面積53haに全長300m、幅15m滑走路1本)。1933年には、当時「空の都」として名高かった北多摩郡立川市|立川町、立川市|砂川村の立川飛行場の民間航空部門が移駐してきた。1945年8月の第二次世界大戦終戦後は米軍の管理下に置かれ、ハネダ・アーミー・エアベース(羽田陸軍航空基地)と呼ばれた。同年には米軍による拡張工事が行われたが、拡張地区内にあった既存の建造物が軒並み撤去される中、穴守稲荷(あなもりいなり)神社の大鳥居だけが更地にぽつんと残されて話題となった拡張地区内から立ち退きを余儀なくされた旧住民らが憂さ晴らしに語っていた「米軍が大鳥居を撤去しようとしたら事故が相次いだ」という根も葉もない話に尾びれがついて、「お稲荷さまの神罰が下って死者まで出た」という都市伝説になった。そのためもあってかこの大鳥居を粗末に扱おうとする者は後々までおらず、移設の話が何度出ても立ち消えとなり、大鳥居はさらに半世紀以上にわたって空港敷地内の駐車場の真中に留まり続けた(→ 画像)。そもそも米軍がこれを残した実際の理由は、この土地に不慣れな米軍パイロットにとってこの大鳥居は着陸時に格好の目印となったからだが、その大鳥居も沖合展開事業に伴う新B滑走路の障害となったため、1999年2月に800メートルほど南に丁重に動座されて今日に至っている。なお移転の際、作業を始めようとしたところ曇り始め、見守っていた人たちの間から「やはり祟りが」との声が漏れ、関係者を苦笑いさせたと新聞で報じられた。。旧地名は羽田江戸見町(鈴木新田字江戸見崎)、羽田穴守町、羽田鈴木町(鈴木新田字宮ノ下・辰巳ノ方・巽ノ方・明神崎・鈴納耕地・堤外東南)、羽田御台場、鈴木御台場(鈴木新田字御台場・御台場耕地・辰巳島)、猟師町御台場(羽田猟師町)。返還以後(東京国際空港)
連合国による日本占領が終了した後、1952年7月にアメリカ軍から一部返還され、現名称の東京国際空港に改名。その後1958年に全面返還された。1955年には新しい旅客ターミナルが完成した。その後、日本の空の玄関口、首都の空港として国際線・国内線ともに発着回数が増え、1964年に行われた東京オリンピックの時など数度にわたり旅客ターミナルが増・改築もされた。しかし、この頃にはもう増大する一方の離着陸をさばくのが困難になり、A滑走路の使用を停止して駐機スポットにするなどの策も講じたが、それでも対応が難しくなった。当時の港湾土木技術では沖合移転に必要な埋め立て工事には多大な困難が予想されたこともあり、当時の運輸省は首都圏第二空港の開設を決定、千葉県成田市に成田国際空港|新東京国際空港の建設が始まる。1978年に成田が開港するとすべての国際線が移転(詳細は「#国際線の就航状況|国際線の就航状況」の節を参照)。その一方で羽田の沖合展開事業も着々と進められ、1993年9月には新国内線空港ターミナルビル|ターミナルビル(第1ターミナルビル)が完成した。同ターミナルを運営する日本空港ビルデングはこれに「ビッグバード」(Big Bird) という愛称をつけたが、今日ではこれが羽田空港旅客ターミナルの総称としても用いられている。1998年3月20日には新国際線旅客ターミナルビルが完成した。2004年12月1日に第2旅客ターミナルビルが供用を開始した。全日本空輸 (ANA) グループおよびANAグループと業務提携している北海道国際航空 (ADO) の国内線業務が同ターミナルに移転した。12月21日には第1旅客ターミナルビルに残っていた日本航空 (JAL) グループが、従来使用していた同ターミナル南ウイングに加え、ANAグループの移転跡地である北ウイングの使用を開始。その後2006年4月1日よりANAとの国内線コードシェアを実施するスカイネットアジア航空 (SNA) も第2旅客ターミナルに移転し、現在はのそれぞれ専用ターミナルとなっている。ただしSFJはANAとコードシェア便を運行しているため、ANA便名でもSFJ運行の便は第1旅客ターミナルから出発・到着する。各ターミナルのシンボルカラーも、第1ターミナルはJALグループのコーポレートカラーである赤色、第2ターミナルはANAグループのコーポレートカラーである青色となっている。JALグループでは広い第1ターミナルを活かし、国内線方面別チェックインを行っている。#ターミナル・路線|ターミナル・路線を参照されたい。第2旅客ターミナルビル供用に関連して、2005年4月1日より東京国際空港を発着する便の航空券に旅客施設使用料として100円が上乗せされている。使用料の導入に関しては、国内線ハブとしての優越的地位の利用との非難も相次いだ。国内線を対象とした旅客施設使用料の徴収は日本で初めてであった(中部国際空港も同日より開始)。
沖合展開事業
かつてのターミナルは現在地より陸地側、今のB滑走路の南端付近にあり、3本の滑走路もそれを囲むように配置されていたが、1964年の海外旅行自由化以降は航空機の利用客が急増し、便数も増加できない上に国際線・国内線が同居する状態では発着する飛行機の数を捌き切れなくなり、空域では航空機同士が急接近する事が常にあった。このため、1970年代にはターミナル寄りの旧A滑走路 (15R/33L) を事実上閉鎖して駐機場を拡張した。新設された新東京国際空港に国際線が移転した後も、国内線の需要の急激な増加が続いたため、手狭なターミナルと2本(交差しているため同時使用はできないので、事実上は1本)の滑走路では、首都空港としてのキャパシティは既に限界を超えていた。滑走路は現在よりも市街地に近かったため、騒音に対する苦情も絶えなかった。これら空港機能の改善及び騒音対策を目的として1984年1月から沖合展開事業(通称: 沖展)が行われた。沖展に不可欠な埋め立て工事は、脆弱な海底地盤により難航した。長年ヘドロが堆積した「底なし沼状態」であったことから、重機はおろか人間も立ち入れなかったのである。チューブの集合体の板を地中深く差し込むことで水を抜くペーパードレーン工法や、沈下する地盤をジャッキの油圧で持ち上げ空洞を特殊なコンクリートで固める工法などを駆使し、計画から完成まで約20年の歳月を経て完成したこのエピソードについては日本放送協会|NHKで1993年に放送されたドキュメンタリー番組『テクノパワー』第3回及び2004年放送の『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』でも取り上げられている。。この埋め立てによって新たに生まれた土地は広大なもので、これがすべて大田区に組み込まれたことから、世田谷区は長年保っていた「特別区|東京23区で面積最大」という地位を大田区に譲ることになった。この事業は3期に分かれ、第2旅客ターミナルビル南ウィング(仮称)が完成した時点で終了する予定である。
A滑走路移転・拡張(1988年7月供用開始)
西側地区旅客(→第1旅客)・貨物ターミナル・新整備場移転・新設(1993年9月供用開始)
管制塔・運輸省(→国土交通省)航空局棟移転(同上)
構内道路新設
首都高速道路湾岸線延伸(1993年9月開通)
東京モノレール羽田線 西旅客ターミナルビル「新」羽田空港駅(→羽田空港第1ビル駅)まで延伸(同上)
C滑走路移転・拡張
国際線旅客ターミナル移転(1998年3月20日供用開始)
京急空港線羽田空港駅まで延伸(1998年11月開通)
B滑走路移転・拡張(2000年3月供用開始)
第2旅客ターミナルビル(2004年12月1日供用開始)
東京モノレール、羽田空港第2ビル駅まで延伸(2004年12月1日開業)
空港連絡道路(2004年12月1日午前4時供用開始)
第1旅客ターミナルビル北ウイングJALグループ利用拡張(2004年12月21日開始)
第2旅客ターミナルビル南ピア(2007年2月15日供用開始。66〜70番スポット)
第2旅客ターミナルビル南ピア71〜73番スポット(再拡張事業完了後に整備予定)
第2旅客ターミナルビル南ウィング(仮称)(再拡張事業完了後に整備予定)
第2旅客ターミナルビル第4駐車場 (P4) 立体化(再拡張事業完了後に整備予定)
国際線の就航状況
羽田には戦前から日本航空輸送や満州航空の国際線が乗り入れており、戦後は日本の表玄関として世界各国からの国際線が乗り入れていたが、1978年成田に新東京国際空港が開港したことにより国際線はすべて移転し、羽田は名目上国内線専用の空港となった。ただし中華民国のチャイナエアラインだけは特例として羽田に残った。これは1974年1月の日本と中華人民共和国の間で締結された日中航空協定に先立って、日華路線に就航する中華民国籍の便はすべて「日本の国内線扱い」とすることが日中間で取り決められていたため。このため日本行きの中華航空機は当時尾翼に描かれていた中華民国の国旗である青天白日旗を塗りつぶさなければならないという悲哀を味わったが、いったん成田が開港して羽田が国内線専用となると、チャイナエアラインは「国内線」としてここに留まることができたこのため唯一都心に残ったチャイナエアラインの台北経由便を利用してアジア各国へ行く利用者が増加、同社は思いがけない恩恵を以後四半世紀にわたって享受することなる。。1989年にはやはり中華民国の新規参入航空会社・エバー航空が羽田発着となっている。2002年には早朝深夜枠を利用したグアムやアジア各国へのチャーター便の運行が始まる。4月18日に成田空港のB滑走路が暫定供用を開始したことに伴い、チャイナエアラインとエバー航空は成田発着となる。これで浮いた発着枠が活用されたのが同年開催された2002 FIFAワールドカップ|2002年サッカーワールドカップ日韓大会だった。大韓民国|韓国ではソウル特別市|ソウル都心にほど近い金浦国際空港|金浦空港が新たに建設された仁川国際空港に表玄関の地位を明け渡して国内空港化していたが、仁川はソウル都心からは遠く不便で、成田とよく似た状況にあった。そこでワールドカップ開催期間中とその前後に羽田と金浦を直接結ぶチャーター便を発着させたのである。これが好評を博したため、翌2003年からは羽田と金浦の間に「定期チャーター便」という、定期便に限りなく近い航路が開設された。2007年には同じ「定期チャーター便」方式で、羽田と中華人民共和国の上海市|上海の上海虹橋空港|虹橋空港の間に、2008年には香港国際空港|香港の間に航路が開設されている。再拡張事業でD滑走路が完成すると羽田の発着枠は大幅に増加することになるが、増加分の一部は同様の形式で近距離国際線向けとする方針である。これに対し、横浜市はASEAN地域を含む6000キロ以内を含めるよう主張している。また近い将来には国際定期便の運航も再開されると予測する関係者も多い。2008年5月19日、国土交通省は2010年に羽田空港が再拡張されることに伴い、深夜と朝|早朝時間帯に限り国際線の中距離・長距離便の就航を自由化する方針を固めた。20日の経済財政諮問会議で冬柴鐵三国土交通大臣|国交相が表明する。同空港は2010年の秋に4本目の新滑走路が供用が開始され、発着枠が30万回から41万回に増加する。その中で国交省は、このうち3万回を国際定期便に割り振ることを決めている。同省は、周囲の騒音問題等で成田国際空港|成田空港が発着できない午後11時〜午前6時の深夜と早朝や、それに隣接する時間帯なら成田を補完する形で活用が可能と判断している。一部毎日新聞から記事を抜粋。
成田空港開港以前に定期便のあった外国航空会社
第1旅客ターミナルビル北ウイングJALグループ利用拡張(2004年12月21日開始) 第2旅客ターミナルビル南ピア(2007年2月15日供用開始。66〜70番スポット) 第2旅客ターミナルビル南ピア71〜73番スポット(再拡張事業完了後に整備予定) 第2旅客ターミナルビル南ウィング(仮称)(再拡張事業完了後に整備予定) 第2旅客ターミナルビル第4駐車場 (P...
